日本人は、なぜ投げ銭の金額が少ないのか。横浜で見た大道芸に対する投げ銭の様子を見たら金額が30円とか5円で多くても100円だったことに目がとまった。
日本中を回っているという大道芸人にあまりに少額なので生活できるのかと疑問になり聞いてみた。平均50円を100人から頂ければ5000円でなんとか生活できると言う。
日本人は娯楽に対して金銭を支払うという感覚が希薄なのかも知れない。海外のYouTubeの動画などを見るとパフォーマンスに対してそれなりの対価を払っている。例え信号待ちのわずかな間だったとしてもお札を入れて離れて行く人もいる。
映像の中でパフォーマーの用意したケースには10ドル札とか50ドル札がふつうに入っているのには驚く。
雇用形態の違いが原因の一つ
なぜ、日本人は路上パフォーマンスに対して、5000円札を入れないのだろうか。受けたサービスに対して対価を払う感覚が希薄なのは日本独自の雇用形態の違いから来ているのかも知れない。
アメリカでの雇用は契約書が交わされ、何に対する報酬かが明確に決まっている。エンジョイもサービスであり、サービスを受けたら対価を払う、そのサービスの価値を認めて、その対価を払う。
日本の雇用体系の代名詞サラリーマンの多くは「給料をもらっている」という感覚が多い。自分が提供している労働に対していくらの対価がどれぐらいの価値があるのかという感覚をあまり聞かない。
ふだんの生活でも提供者の決めたこれは価格だけで、ものの価値を判断する事が多い。これは1万円だから6千円商品より良いものと、内容より価格で判断している。「いくらだった?」と耳によくする。
お金の価値
そもそも、お金の価値はどれぐらいなのだろうか。1円の価値はどれぐらいなのか。「お金とは受け取った価値(または提供する価値を)を金額という数値に変換したものである。」と言う見方がある。
たとえば漁師が釣った魚を、とりあえず現金と交換することで、受け取った時点で価値を金額として固定することができる。釣った魚は時間がたつと腐っていくが、お金に交換すれば受け取った金額は変わらない。
大道芸の路上サービスも、見てからしばらくするとその感動は薄れるが、その時点の価値を、投げ銭で固定することができる。
あなたの感動の価値はどれぐらいなのか。感受性のパラメータとしてみると、30円とか10円というのは適正なのだろうか。
生活をするのにはこれぐらいかかるから、これぐらい払わないと駄目だよねと言う考えには同意できない。これは、企業が労働者に給料を払う時の値段の決め方である。
自分の労働対価がわかると、企業に対して、「いや、生活の問題ではなくて、わたしはあなたにこれだけの価値を提供しているから、これだけくれないと嫌だよ」と言えるようになるのではないだろうか。