個人的な感覚ですがインフルエンザの対処方法の考え方をすると、改善までの僅かな時間を手に入れるために、高額なお金をかける価値があるのか?という判断基準もあってもいいのではないかと感じました。

新型コロナウイルスの現状

2021年4月21日の現時点での日本国内では、変異ウイルスを含めて新型コロナウイルスが蔓延しつつあり、第1次緊急事態宣言からずっと毎日ニュースで本日の新型コロナ感染者数が伝えられてきています。

新型コロナウイルスは、潜伏期間があり朝、感染して夕方に症状が出るものではありません。にもかかわらず例えば「大阪府 1153人感染確認 火曜日では最多 8人死亡 新型コロナ」のような速報がTV番組中に警告音付きでテロップ表示されます。大型タンカーが漁船に激突するようなタイミングで速報が出ても意味がない気がします。

1日の感染者数がいかに注目されているかという見方をすると、東証市場の株価の値動きぐらいの軽さを期待しているのか?とも思えてしまうのです。日中に自分の買った株が、上がったり下がったりするのを見るとドキドキした思い出がありますが、それと似たような感覚なのかなとも思ってしまいました。

もともと少ない中での報道姿勢として少し煽りすぎのような気がします。もっとおおらかに、捉えないとチキン利食いと同様の冷静な判断機械を喪失してしまうように思います。

人口に対するスケール感

連日夕方ニュースのトップ扱いで国民に広く知ってもらうための数字が、1000名という大雑把な数字なのです。その数字は大学の教養科目で使われる統計学の教科書にある分析手法ではなく、小学生レベルの集計値なのです。

大阪府の要請よって他県から二人の看護師が派遣されたと、ニュースになりました。たった二人です、派遣した医師団が千人とか二千人のオーダーではありません。たった二人です。

たった二人の看護師を派遣するだけでニュースになるほど逼迫しているのか?という見方もできますが、大阪都市圏の人口は1200万人で、京阪神を含めると1800万人にもなります。

新型コロナウイルスの感染拡大を捉えるとき、国境や県境などに意味はなく、大雑把に蔓延地域を捉えると1800万人が関係しています。にもかかわらず、都道府県市区町村別に、本日の感染確認者数が120名だったり540名や21名という単純な数字だけを毎日伝えているのです。その数字を聞いて、何をどうするのだと思ってしまいます。

スケール感が全くわからなくなりますが、冷静に判断するには大規模で仔細な分析が必要だと思います。全く数字から現状が見えてきません。全部ひっくるめて、本日33名確認といった発表を見ると、むしろ、煽っているだけのようにしか見えないのです。

かといって、「大阪府内での人口に対する本日の感染確認確率が0.0096%」と伝えられたらあっそう。と思うかもしれません。

感染拡大予防の協力に必要な情報

話が逸れるので詳しく書きませんが、福島第一原発メルトダウン事故による避難指示は原発からの単純半径と市区町村ごとに出されました。放射性汚染物質の滞留に地区町村は関係がなく、結果として風下に避難してより多く被曝した方がおられたと聞きました。

演算や計測と分析による具体的な危険分布などの開示がないコロナウイルスも、福島第一原発事故での避難状況と近い感じがします。

市区町村といった区分は、江戸時代のように人の往来が管理され難しかった時代ならまだしも、現代にはそぐわないように思うのです。

新型コロナウイルスも放射性汚染物質も似たような側面があり、市町村ではなく人の往来や、通勤通学ルート、携帯電話回線の位置情報を利用したビックデータをもとに、時間帯や対応地域を分けて注意喚起をすればと思うのです。

感染症対策と原子力問題

感染に関する情報にが市区町村などに別れる点について、結局は市町村ごとの税金分配に行き着きます。ニュース報道にて行政の発表データをそのまま伝えているという側面も強いように思います。ほとんどの都市部に住んでいる日本国民は、地区町村といった境界線を意識していません。

人の都合など関係がない自然現象に対する人の行動を予測分析するシステムは、災害時に非常に役に立つような気がします。原子力規制委員会も原子力発電所事故に対する避難計画に基づく、対応方法として、真面目に研究開発していたら、変わっていたのではないかと思うのです。

浪江町などを含む福島の汚染地域に対しては毎年約2000億円の国税が投入されています。その予算で建設された、とても豪華な仮役場を見た時のことを思い出し、予算はしっかりあるのにと感じてしまいました。

個人にリーダーシップを求めるのは時代遅れかも

一方で、優秀なリーダーシップが取れるリーダーを期待する声をよく聞きます。例えば、総理大臣がダメだとか、社長がダメだとか、ドイツのメルケル首相は優秀だといった話です。

ここまで複雑な社会の仕組みになると、例えば安倍晋三という一人の総理大臣に対して、国家財政やらパンデミック対応の舵取りなどの責任を押し付けるメディアや国民感情に対して違和感を覚えるのは僕だけでしょうか。これだけ、大規模になると人間一人や国会議員など衆議院465名、参議院245名が、揚げ足を取られないように注意しながら、あーだーこーだと話して決めれるレベルではないことは、火を見るより明らかです。

あの安倍のマスク小については、何かを成し遂げたいという個人の感情もあるかと思いますが、そのやり方を提案しコントロールした官僚にも問題があるように思います。もし、開かれた中で、一人のリーダーシップではなく、集団知で乗り越える風潮だったら結果は変わっていたはずです。

それでも、多くの人が、リーダーが悪いとか、政権に対してこうするべきだと言う感情を持って、一人の才能ある預言者のような指導者が舵を取ってくれることを期待しています。

こそこそと、バレないように、気づかれないように、面倒なことわしたくない、今までこうだったから自分が変えて後から責任を取らされたくない、自分だけが得をしようとする行動こそが、結果的に全体的な損失の根源のような気がします。

「ローマ人の物語」の著者である塩野七生さんが、コロナ禍の2021年1月ごろ放送された「ニュースウォッチ9」にて、「なんでも100パーセント主義はやめるべき。減点主義を捨てること」と訴えていました。「失敗できる自由を失ってはいけない」僕もそう思います。

国家財政は無限ではない

定額給付金や様々な補助金などの話が出ていますが、その費用は最終的には有限の税収から出ています。国家財源だろうが、限りある資源です。税収以上の支出をしてきた歴史を振り返ると、戦時中の大日本帝国が思い出されます。大日本帝国は、国民からありとあらゆる方法を使って、お金をかき集めました。無尽蔵な紙幣の発行から、財産の差押、そして年金制度による搾取など、ありとあらゆる方法です。

世界大恐慌などの経験をした親の子供は現在90歳ぐらいになっています。定額給付金に対する説明をした時「そんなものはもらっちゃいけない、定額給付金は返さなくていいのかい?」と話したというエピソードをどこかの雑誌で読みました。

僕も子供の頃に祖母から「母からタダでもらったからといって粗末に扱ってはいけないと、叱られた」と色々な話の中で諭してもらった記憶があります。

子供の世代に負債を残さないとか、スローガンのような色々な言葉を聞きますが、過去ではなく、現在作りつつある負債については全く、無頓着に見えてしまいます。

国家財政は無限ではなく、限られた資源と捉えた集団知が必要だと思います。だからこそ、判断材料にするための客観的事実や損益感情を含めた透明性が必要だと思うのです。

損得勘定も大っぴらにしたほうがいいと思うのは、正直に俺は損したくない、儲けたい、という裏の感情は人間の感情でありその感情を無視したら人ではなくなるように思うのです。いいではないか、人間なんだからと、その損得勘定が可愛らしく思える状況も必要だと僕は思います。

みんなで、出し合った有限の財源を分け与えながら、全員が納得した上で「越後屋お主も悪じゃのぉ」と言い合えばいいと思うのです。

無限にあるお金の幻想

僕は小学校低学年の頃、お年玉としてもらった1万円を、親に内緒で使い回しました。その時に、1万円というお金は巨額であり無尽蔵に見え、ありとあらゆるものを買い集めました。そして気がついたら、無尽蔵に思えたお財布の中のお金がすっかりなくなり、僕は落としてしまったと慌てていたたことを思い出しました。

自分で使ってしまったことに気づくまでずいぶん探しました。そして自分の購入したおもちゃを見てなんて無駄な使い方をしたんだと反省しました。なんだかよくわからないけど、手に入ったお金より、出どころがしっかりわかるお金の方が有効活用できると実感した記憶です。

新型コロナウイルスに対して、命を金で算段するのか?という批判は、当然あるかと思いますが、やはり、国が無償で提供するからと考え、せっかくのワクチンを効果的に使わなかったり、自分さえ良ければ何をやっても大丈夫だという考えがあると思います。

そういった視点から考えてみて、いつものように米国からの兵器購入の代わりに、高額でワクチンの契約をさせられたという見方もあり、それは多分事実であり表に出せないことだとは思いますが、「ワクチン1回の接種にどれぐらいの税金が投入されたのか」について、公開して検証することも必要だと思うのです。少なくてもマスク2つの価格では済まないなずです。

ワクチンは打つメリットが打たないメリットを上回る場合に接種するのですが、結果論となるその安全性は誰も保証することはできません。そう言う背景もあり、自分以外がワクチンを打てば接種しなくてもいいと考えている人は多いです。当然と言えば当然です。

その論理を使えば、そのワクチンは本当に必要なのか?と冷静に判断できるように思います。

タダや無料は効力を著しく下げる

タダだ、無料だ、という、認識は、スーパーの氷やビニール袋のように無駄に使われがちなものを思い出します。粗品のボールペンや、粗末に飲まれたお祭りで無料で振舞れた無料酒などが、頭をよぎりました。タダは多くの場合、自分がお金を出して手に入れたものと同じ扱いにはならないのです。

僕は、そのことに対して、非常に深い悲しみと、情けなさを感じるのです。多分、それは、僕が稲荷信仰だからかもしれません。

費用対効果、そういったことは重要だと思います。本当に、日本でワクチンが必要なのだろうか?別の道があるのではないかと思うのです。ワクチンが、一回も開封することなく家のどこかに紛れて見つからない、安倍のマスク小と同様の結果となるのではないかという予感がしてしまうのです。

ウイルス対策の費用対効果が低くなると考える要因

国内の世論調査で4割から6割程度の人が、新型コロナウイルスを大したことがないと感じているということがでましたが、僕自身もその4割から6割に入っているように思います。

逆に、この4割から6割がそのように感じている原因は、行政や都道府県知事そして政府が毎回出てきて、信憑性が乏しく、現状が明確に判断できない、発表ばかりして、現状が認識できない状態が原因だと思います。

また、大雑把な数字は、市民が生活の中で肌で感じる実態とあっていないからだとおもいます。特に東京都内の感覚と地方との感覚には大きな隔たりがあるように感じます。そして、同じ地区に住んでいても勤めている企業の規模によって、感覚が全く別のものになっていることを肌で感じています。

幼稚園や学校に通っている未成年の子供が家族にいる場合は顕著です。学校の対応やママ友との関係の中で生まれた論理性を欠く掟によって、江戸時代の村八分の再来のような、直接のウイルス被害とは全く関係のない問題が発生しているところも見聞きしてきました。

一方で自分だけは大丈夫だと考える人も多いようです。確かに、新型コロナウイルスの状況を、その背景を考慮せず数字だけで分析すると、大したことがないように思えます。さらに感染していても重い症状が出ないからため、数字に現れないことも影響しているように感じるのです。

サンプルをどのように取ったかなどの情報があり、それに対して、どのような対策をとっているのか?といった分析をもとに、現状ではどういう結果が出たかといったことも含めなければ、状況は全く掴めません。憶測で動くことになるのは当然の結果だと思います。

初期の緊急事態宣言の際、オンラインで視聴できた定例記者会見では県知事や担当職員が丁寧に説明していました。1時間や2時間あるうちの30分で説明された内容をそのまま、10秒から20秒でまとめるのは困難ということも理解できます。実際細かく説明すればするほど、難しくなり、眠くなります。

原発問題などの説明会の裏と表の両方から感じるたことですが、論理的に細かい分析状況を確認しながら、冷静に判断できる人は、統治者にとって問題にしていないのではと感じたことがあります。

むしろ理解しようとせず感情で判断する民衆による、デモや暴動に対する危機管理がコントロール対象となり、このような曖昧な、1000名といった数字しか出さない背景にあるような気もします。かなり、国民を馬鹿にしている考え方のように見えます。忘れがちですが、現在日本での大学進学率は54%を超えています。

そして何より、後から間違った判断をしたと突き上げられ、責任を取りたくないという、気持ちが、今の現状の原因ではないかと思います。

日本がアメリカの同盟国だからという理由で、他国より安価で好条件になっている契約はあり得ないと思います。むしろ世界一高額な契約を結んだと捉える方が自然です。

近況はわかりませんが、EU諸国では現在ワクチンを域内の工場から輸出させないといったやり方まで使い、かき集めていると報道がありました。日本へ輸出されるワクチンが止められるのではと言う心配からかもしれませんが、政権の希少なワクチンを手に入れたことに対する演出意図が潜んでいる気もします。または日本民族の優越感を煽っているだけにも感じるのです。

タブー視されそうな、新型コロナウイルスワクチンの購入権を譲渡するという選択肢もありなのではないかとおもいました。

とにかく、現状での新型コロナウイルス対策は、費用に対して、著しく効果が低くなる可能性が高いと思いました。